お子さん「どんな人」に育てたいですか?
どんな人になってほしいですか?どんな子に育てたいですか?
私は息子を、どう育てたいのか?一人目を産んでしばらくして、二つ違いの子どもがいる元同僚とランチをした際に、
「どんな人に育てたいか、考えることって重要やと思うで」
と言われたことがあります。
日々成長していく息子との慣れない生活、育児にてんてこ舞いで目の前のことばかりに気をとられていた私にとっては目からウロコでした。
そういうの考えたの、名付け のとき以来だったかも!?
Contents
仕事もモノづくりも青写真を描くはずなのに
彼女はとあるメディアの編集をしていて、私は以前その会社の営業だったので、仕事のことにたとえながら話が弾んだ。
どんな雑誌や記事も、読者にどんなメッセージを伝えたい、という最終的な目指す像がある。
家を建てるのにも、どんな家にしたい、という青写真を描くはず。
なのに、子供が生まれてきてもどんな風に育てたいとか、どんな人になって欲しいとか、立ち止まって考える時間がないままにどんどん時間が過ぎてい、子どもは成長していく。
なんの具体的な未来図がなくても、情熱も愛情も注ぎ、
時間もお金もかけて夢中に過ごせるのは子育ての醍醐味、すごいところでもあるけれど、
ふとした時に、
「で、結局わたしはどうしたいんだっけ?」
「この子にとってこれでいいんだっけ」
と迷う時が来る。
そうじゃなくても、子供とのことで思い迷い悩むことなんて日常茶飯事。
- お友達とのおもちゃの取り合いになった時にどんな言葉をかけるのか
- ずーっとテレビを見ていてやめられない時になんて声をかけるのか
- 習い事を始めたい!という時にどんなお約束をするのか、どうやって始めさせるのか
- 習い事を辞めたい!という時にどんな対応をするのか
- いじめられた、という時にどんな対応をしたらいいのか
- 嘘をついているとわかった時、どう対処したらいいのか
親としてどうしたらいいのだろう、と悩むことなんて想像するだけでも、体験しただけでも数え切れないくらいある。
どれも正解はないし、どんな対応をしても後悔もする。
だけど、「どんな人に育って欲しい」という軸があれば立ち止まる時間が少しは短くなるし、子供に向き合って一緒に過ごす時間を増やせると思うのです。
なんでずっとテレビ見てちゃいけないの?
例えば、毎日毎日保育園から帰ってきたらテレビを見たいと言い、
ご飯とお風呂以外寝るまでずーっとテレビ見たい!朝起きてもまたテレビみたいと駄々をこねる。
これ、つい最近のわたしの格闘した問題。
なんとなくこれじゃいけないような気がするけど、
これでいいんだっけ?ダメだよな…。
しかも子供は年齢が上がるにつれて、ただ「ダメ」というのでは納得しなくなってきているからちゃんとした説明が必要。
なんでずーっとテレビみてちゃダメなんだっけ?
と、わたし自身がちゃんと考えて、なんて言ったら伝わるのか考えて、ゆるちゃんに話をして納得してもらう。一回じゃなかなか理解しなかったり、やっぱりテレビみたい欲求が勝って再び駄々をこねて、その度その度説明したり、交渉したり、交渉されて歩み寄ったり。
そんな繰り返し。
そんなときも「どんな人に育ってほしい」というのがあれば、おのずと「どんな体験をしてほしい」が見えてくるから、自分なりの答えが出やすい気がする。
それと、テレビをずっと見ていることがダメなことじゃないこともあるし。
テレビ問題にフォーカスしてしまい、ついつい忘れがちなもっと大切なことあるよね。
「どんな人」であって「どんな子」ではない
子供はいずれ大人になる。
だから、
「どんな人に育って欲しい」とか
「こんな力を身につけた人になって欲しい」とはいっても
「どんな子に育って欲しい」というのはちょっと違うような気がしている。
屁理屈みたいだけど、「子」じゃなくて「人」。
わたしにとって息子はいつまでも我が子だけど、いつか独り立ちして離れて行く時が来て、わたしの言葉なんて必要なくなり、わたしの方が手を引いてもらって歩く日がやってくる。(超超高齢化社会になっているであろう50年後くらいに手を引いて歩いて欲しいなんて、わがままかしら?あー、想像するだけで寂しい(涙)
だから、「どんな子」に育てたいとか育って欲しいかとかでなく、その先にずっと繋がる「どんな人」に育って欲しいかという、未来に視点をもっていって考えることは重要だと思う。
息子にどんな人になって欲しいか
で、わたくしゆるままだちこは、ゆるちゃんやまるちゃんにどんな人になって欲しいのか。
正直模索中です。
この先彼らが生きて行く100年ほどの間、どんな力が必要なのか、それはまたこんど別の記事で書きたいと思いますが、ざっと、今考えている大切だと思うことを書き出すと、
- 自ら創り出し切り拓きチャンスをつかむ力
- ひらめき
- どんな時も前向きに生きる力
- 人を愛する力、人に愛される力
- 置かれた状況で咲ける力
- 自分自身をみがき、育て、鍛えることができる力
たとえ会社をクビにになってもw
誰かに振られても
選抜メンバーに選ばれなくても
一軍に入れなくても
夢破れても、
腐らずに楽しいことを見つけられる人になって欲しい。
でも、1年の365日のうち、そんな辛い日なんてほんのわずかだから、ほとんどの平穏な楽しい日をより楽しくコツコツ生きていって欲しいなと思う。
だから、先に書いたテレビ問題のときも、自ら考えることや、楽しさを創り出すこと、計画して動くことができるようになってほしいから、
「何の番組を見たい」という能動的な意思なく、流れるテレビを流れるままに計画性なく見るということが、私が引っかかっている一因とわかり、ゆるちゃんに説明しました。
4歳でも結構わかるものです。
仕事とか将来とか
どんな仕事をして欲しいとか、何ができるようになって欲しいとか、そいうことはあまり考えていません。
(あ、でもスポーツや音楽や読書など人生を豊かにすることを楽しめるようになって欲しいなぁーとは思うけど)
だちこは小学生の頃は『そろばんできれば賢い』と言われ、
高校は進学校にいっていただちこですが、大学受験のときには、
『これからの時代は理系だ!医者になれないなら理学療法士か薬剤師か看護師になれば高給で生涯安泰だ』と言われていました。
希望進路に関係なく成績順で理系進学クラスになり、ひたすら詰め込み授業で点数を稼ぎましたが、20年ほど経った今、理学療法士も薬剤師も飽和状態、看護師も安泰といえる職業とは言いがたくなってきています。
そろばんも、今では見ることもありません。実際そろばんができるできない、よりも学習習慣や反復練習など違う力は身につくと思うのですが、そのもの自体を習得することにはそこまで大きな意味があるとは思っていません。
それに、これからの時代がどうなるか、予測はできてもそんなことわたしの想像なんかはるかに超えていくんだろうと思うから、無意味。
勉強も習い事も単なるツールに過ぎない
だからこそ、勉強も、習い事も、単なるツールにしか過ぎません。
将来何になるのか、どんなことで人の役に立ちたいのか(誰かのためになることが”仕事”、という意味で。)それは、どんなことであってもいいし、今にはない職業や、わたしの知らない世界や趣味もたくさんあるので、息子がやりたいと思うこと、好きだと思うこと、なんとなくでも良さそうだと思うこと、応援してあげられたらなぁと思います。
2020年からセンター入試廃止で新制度へ
勉強の仕方や仕組みはどんどん変わります。
高校から大学に進学する際に多くの大学が試験として利用しているセンター入試。
これも、2020年から変わることが文部科学省から発表されています。教育改革(高大接続改革)とか「教育の2020年問題」と言われている改革です。
今行われている鉛筆で選択マーク式、高校3年の1月に1回だけの実施、というのがガラリと変わり、内申点という評価方法も、2、3年で行われる学力テスト(高等学校基礎学力テスト(仮称))になり、年複数回行われると言われています。
また、コンピューター端末に入力するCBT方式になるため、ITへの慣れなどによっても大きく左右されます。
わたしが受験していた頃とはうってかわるこの状況。
わたしが小さい頃はダメって言われてたこと、例えばゲームばっかりしてちゃダメとかも肯定できる時代。
全くゲームやったこともゲーム機に触ったこともない人に比べたら、ゲーム機に慣れている人の方が、点数出しやすくなってるんですよね。
なんでもダメとは一概に言えないです。
ゆるちゃんやまるちゃんが、わたしの今くらいの年齢になる頃。
ちょうど2050年頃。
ここ日本はどうなっているのでしょうね。
この21世紀を生き抜く3+1の力は面白かったです。具体的な数値もありながら予測も書かれています。
青写真は描くけど子供を思い通りにするわけじゃない
所詮、カエルの子はオタマジャクシ。
わたしの子はわたしの子。
思い通りになんてならない。
突然変異でなんでもできる天才ブラックジャックや、天才スポーツマンが生まれてくるなんてこと、到底ないし期待もしてない。
でも、無限大の可能性を秘めてて、やればなんでもできて、とんでもない才能をひめているかもしれない、という期待はしている。
だから、
「どうせ」とか「ほらやっぱりダメだった」とか、言わないようにしたいのです。
失敗したり、約束を守れなかったり、期待したことが裏切られたり、そんなことが何十回何百回とあるかもしれない。
でも、何回そんなことがあっても、この子は大丈夫!と根拠ない自信で信じれるお母さんになりたいと思う。
おおらかに、ありのままにその子らしく生きれたらそれでいい!と信じれる子育てがしたいものです。
青写真、何度でも描き直せばいいし、思いもよらなかった未来がやってきても大きく手を広げて受け入れてあげられたらいい。
期待を背負わせたくはないけど、期待はする、親って難しいなぁ。
日々の悩みもイヤイヤも1000本ノック
泣き止まない夜泣きも、イヤイヤも、あれもこれも買って!の駄々コネや、テレビみたい戦争、進路の選択まで。
小さな悩みから大きな迷いまでいろいろあるけれど、いざという時に力を発揮するための日々の1000本ノックのようなもの。
にちじょうのなかの小さな声かけや行動の積み重ねが、どんな大人に育って欲しいという想いがきっと子供に伝わるからこそ
「どんな人に育って欲しいか」という親の想いが大切な気がしてならない。
思い描いた通りに育てるわけじゃないし、どうなるのかも未知だけど、
いつか子供が大きな壁にぶち当たった時や、
決断しようとしている時、
子供と一緒に大きな壁を乗り越えなきゃいけない時、
私たち親の力を必要としている時にちゃんと力を貸してあげられる親に、わたしもなりたいから、
「どんな人に育ってほしいか」考え続けようと思う。
なーんて、転ばぬ先の杖かもしれませんけどね。
目下赤ちゃんがえりしてる長男と、3ヶ月の次男を目の前に、
オムツ、おっぱい、おやつ、テレビ、絵本、抱っこ、ごはん、お風呂の、育児タスクの無限ループだけにフォーカスしがちな毎日だけに、忘れたくないことなのでメモ的に書きました。
皆さんは、お子さんをどんな人に育てたいですか?